拡散していけど、とりもなおさず RSSフィード

2006-05-2020060520

[][]贖罪 17:25 贖罪 - 拡散していけど、とりもなおさず を含むブックマーク はてなブックマーク - 贖罪 - 拡散していけど、とりもなおさず 贖罪 - 拡散していけど、とりもなおさず のブックマークコメント

 「歓楽叶わぬ納骨堂庭園」(以下、「歓楽」と略)を知ったのは、もっぱら はてな出張所の、5月16日の記事の、おとなり日記である「で、みちあきはどうするの」の、5月15日の日記から辿って見つけたものだった


 ちょっと、寄り道をさせていただくと、ブログ中毒を自認していながら、最近は、自分でブログを検索して、好みに合うブログを探そうという行為はしていないので、はてなのおとなり日記で、似たような記事を探すのが、新規にブログを見つける手立てとなっている


 で、「歓楽」に惹かれたわけは、自分と似ているな、ということ

 読み進めていくうちにわかるのだが、この一文を書いた時点で、筆者の、xuraさんは、もっぱらには、興味を無くすことだろうが、まあいい


 以前、ブログ論は、コミュニケーション/ディスコミュニケーション論である、ということを書いたのであるが、「歓楽」を読むと、それが判然、見てとれる

 そして、ブログという増幅装置によって、その議論は、最終的には、同じ袋小路までいくことになっている

 所詮、主義・思想の違う他者なんだから、理解できないよね、と

 

 xuraさんは、自分は、ブログ論を書いているわけではない、と書いているが、自分の「ブログ論」の定義は、ブログ、という存在をどう見るか、ブログを使って何をしたいか、と多岐にわたっているので、xuraさんの書いているのは、ブログ論である


 誰もが、人生において、理想を追っている

 しかし、こと、コミュニケーション、ということに置いては、人生は、即興性が高すぎて、後悔の残ることが多い

 かたや、ブログも、長考でき、純粋に理想を追求できそうな感じはするが、身体性に、著しく欠けているという欠点がある

 その、身体性の欠如には、目を瞑りつつ、5W1Hを変えながら、理想のコミュニケーションとは何か、を考えていくのである、予め「知っている」ゴールを目の前に置いて


 そして、凡百ある、ブログ論の中で、何故、「歓楽」に惹かれたか、どこが、自分に似ているか、というと、そのコミュニケーションの姿勢、である


 自分は、以前から、「理解して欲しいが、そう簡単には理解して欲しくない」と繰り返し書いているし、だからこそ、過剰に投稿をし続けているのだろうが、そのコミュニケーション欲とともに、その裏返しとも言える感情、「他者を理解したいが、簡単に理解出来はしない、また、理解できた、と言いたくない」というのが、延々、他のブログへのリンクとともに、語られている


 あと、読んでいて、自分が投稿したのでは、と苦笑してしまう記述が、大いにあった


 好きなブログについているTBは気にしないとか、そのブログが気に入ったら、過去ログを読んでしまうとか(実際、「歓楽」は全部読んでしまったわけだが)、斜め読みするので誤読が多いとか


 ここからは、自分の中の、正反対だな、と思った部分


 自己表現に関して

 自分は、ちょっと話聞いて、と思って書けば、自己表現だと思うので、ブログは、自己表現だと思う


 自分という他者、一生一緒にいても理解できない不気味な他者である自分を、少しでも理解するためには、他人が必要で

 そこらへんの認識は、大きく異なるのかな、と


 上手くまとめる予定だったのだが、まとまらなかったので、何処かに矛盾があれば、誰か突っ込んでやってほしいかな、と

トラックバック - http://moppara.g.hatena.ne.jp/moppara/20060520